かあさんが、まだうら若き乙女だった頃――
そう、当時はまだバブル真っ盛りの時期でした。
近ごろ某女性お笑いタレントが「しもしも~?」なんてやってますがね(笑)あの時代です。
友人たちがみな花金の夜にお洒落をしてディスコへ繰り出す中、
私はひとり世間の浮かれ騒ぎに背を向け、黙々と原稿用紙に文字を書き連ねておりました。
何かを表現したくて仕方がなかったあの頃
何のために文字を書いていたのかというと……それは作詞のため。
その頃の私は、何をどう勘違いしたのか???プロの作詞家を目指していたんですよね。
とはいえ実は、当時の私は「まるきり音楽を聴かない人」でした。(今も聴きませんがw)
それなのにどうして作詞家を目指していたのか、今思えば不思議で仕方がないのですが……
ともかく書くことで何かを表現したくて必死だったのですね。
その頃はおニャン子クラブという国民的アイドルグループが全盛期を迎えていて、
彼女たちの全楽曲の作詞を手がけた某プロデューサー氏の「作詞塾」なんてのもあったりして、(いわゆる通信教育ですけどね。ええ、かあさん受講していました)
書くことで自己表現したい=作詞がいいんじゃないか、みたいな短絡的思考だったのかも。
その某プロデューサー氏は、現在も「A〇B48」その他のアイドルグループを多数手がけているみたいですね。かあさんは、もはやどれが誰だかまったく区別がつきませんが。
(ちなみに作詞の成果としては、コンビを組んでくれていたセミプロ作曲家氏のおかげで、一曲だけ超メジャーなプロダクションからグラビアアイドルのプロモビデオ挿入歌として起用されました)
育児中も、かあさんはやっぱりおとなしくママ業なんてやっていられませんでした……
そんなかあさんもやがて怒涛の育児戦争に突入し、しばらく創作活動からは遠ざかっていました。それが一転したのは、上の子が保育園のお友達からセーラームーンミュージカルのビデオを借りたことがきっかけ!
いやー、母娘でハマりましたね~、セーラームーンミュージカル。
池袋のサンシャイン劇場で半年に一度舞台公演があるんですが、毎回欠かさず行ってました。
それだけでなく、春と秋に開催されるファン感謝イベントにもド田舎から必ず駆け付けました。
みてみて~♡ このふたりの衣装、私の手作りなんですよ♫
セーラームーンは手編み、タキシード仮面はパパさんのトレーナーをリメイクしました。
お姉ちゃんが持っているキューティムーンロッドは能面師だったおじいちゃんの手彫りです。
セーラームーンの衣装をまとったお姉ちゃんの写真は、当時セラミュを主催していたバンダイさんの「なりきりコンテスト」で審査員特別賞を受賞したんですよ!
そんなかあさんが育てた息子も、やがて同人音楽の道へ
成長した子供たちのうち、上の子はパパさんに似てわりとまともな生活を送っているのですが(まあ、多少 趣味が偏っている部分はありますが……)
下の子の方はどうやら私の気質を強く受け継いだらしく、DTMというパソコンを使った音楽制作に関心が向かい、同人音楽への道をひた走るようになっていきました。
そして私も、息子が作った曲に何度か「詞をつけてほしい」と頼まれて書いているうちに、
息子つながりの同人作曲家さんや東方アレンジサークルさんからも依頼されることが増え、
「昔取った杵柄」よろしく、楽しく作詞をする機会に恵まれるように!!
で かあさん思ったんですが、「ああ、私がやりたかったことはこれなんだなあ……」と。
乙女時代、別にアイドルソングが好きだとか、ヒット曲を書きたいとか全然思わなかったのに
どうして作詞家なんて目指していたのか?というと、
それは「表現したい自分の世界」があったからだったんだ、と気づきました。
つまり、商業作家ではなくてアーティストになりたかったんですね、私。
そして、その当時は同人クリエイターなんて言葉もなかった時代でしたから、
とりあえず思い浮かぶものが“作詞”しかなかった、というわけだったんですね。
かあさんの育て方が子供に与えた影響は大きかった、なんて今まで思っていたけれど、
ものすごーく影響受けてたのは、実はかあさんの方だったんじゃないの???
まあでも、それも良しとしましょう(笑)人生が楽しく豊かになれば、それでいいんです!
――そんなわけで、ここまでお読みくださったみなさま、長らくのお付き合い誠にありがとうございました!